僕らはみんな壊れてる
『常識』
生きる上で避けては通れないものである。
しかし、
常識とは一体だれが決めたのだろうか。
この世に生を享けたその日から、
今日この日まで、
「当たり前」、「普通」といった曖昧な基準で評価され、また、評価してきた。
恐らく、この世の大多数の共通認識として育まれてきた価値観であろう『常識』は、生きていく上で必要不可欠な存在でもある。
時にはその言葉に苦しめられたものだが、
これまでの人生を振り返ると、『普通では無い人』に多く出会ってきた。
もしかすると、普通では無い人の方が、この世の大多数なのではないだろうか。
人は皆、異なる文化を持っている。
テレビでは自国と他国を比べ、その違いを面白おかしく紹介している。
国内でもそうだ。都道府県、世代、性別。
環境が異なれば、文化の違いがあるのは当たり前なのに、液晶に映る人達は、その違いに驚き、笑い、時には否定していた。
きっと文化の違いは、個人間でも同じことではないだろうか。
同じ土地に住み、同じ言葉を使っていたとしても、全く同じ環境で生きている訳ではない。
関わる人や、所属するグループによって大きく変わるのが環境だ。
文化と言うと、少し大袈裟に感じるだろうか。
例えば、バスタオルを洗う頻度。
毎日洗う人がいれば、1週間以上洗わない人もいる。
それは生まれ育った家庭や、学んできた衛生観念で異なるだろう。
そういった小さな違いが積み重なったものが『異なる文化』であり、『個人』なのである。
多様性が受け入れられる現代。
人種やジェンダーだけでは無く、『常識』も多様性として受け入れるべきなのかもしれない。
自分が常識と思っている文化は、隣にいる人にとっては非常識なのかもしれない。
多様性の社会では、
自分を疑う事が求められる。
少し話が逸れたが、常識なんてものは一人ひとり異なる価値観である。
そのような曖昧な常識に縛られる必要は無い。
否定された貴方の人生は、否定した人間の価値とは異なるものだった。
それだけなのである。
普通では無い人間などいない。
いや、普通な人間などいないのである。